昭和43年11月26日 朝の御理解
神を拝む者は、拍手して神前に向かうてからは、たとえ槍先で突かれても後ろへ振り向くことはならぬぞ。物音や物声を聞くようでは、神に一心は届かぬ。
信心に向こうてからは、例えやりさんでつかれても、後ろへ振り向くことはならんぞ。物音や物声を聞くようでは神に一心は届かん。
神を拝む者は、拍手して信心に向こうてからは、とこう。これは、御祈念の姿をゆうておられると思うんですね。けれど、私共は、おーゆうなら四六時中、一日中、えー信心に向こうておるような心掛けが大事じゃないかと。神様の前で拝んでおるときだけではない。お広前におるときだけではない。それが、自分の家庭においても、職場においても、お広前におるときのように信心に向かっておるときのような、心が大事である。ね、それは例え、ヤリ先でつかれてもとこう。ヤリ先でつかれるような、どのような心を乱すようなことを言われても、またはあっても、後ろへ振り向くことはならんぞと。その神前に向こうておる心を、心から外してはならんぞと。ね、それを例えば、外すようなことでは神に一心は届かん。どんなに、必死に願いよっても、それを外すようなことでは、神に一心は届かん。今日はここのところを一つ分かって頂きたいと思います。どんなに、必死に拝みよってもです、ね、一心にすがっておっても、そこのところを乱すようでは、神に一心は届かんとこう仰るのですから。例え、えー、神様に心を向けるということが、それが例え一足でも、例えば無駄にはさせんと仰せられる。一足でも無駄にはさせんと仰るのですから、これは、お参りをするということだけでも、ね、またはね、あー、御祈念をしておるといういう間だけでも、お広前におるというだけでも、心を神様に向けておけばです、その無駄にはならないのです。それは必ずそれが、積もり積もっておかげのもとにはなるのですけれども、ね、けれども、せっかく信心させて頂いて、おかげを頂こうという一心を立てたらですね、その一心が貫かれ、届くようなおかげを頂くための工夫がね、どうでも必要だとこう思うのです。そこで私は、そのことがですね、そのことが楽しみになる。いうなら、そのことに、三昧。いわいる信心三昧ということをもうしますね。えー、お茶三昧とか、あー釣り三昧とかという、お茶やら、釣りをする人達が三昧教というのがあるんですね。三昧というのは、さんみと書いてありますね。ね、例えば、釣りをしておる人達が、釣りざおの先を見つめならがら、糸をたれておる、じーっとその水面というか、その( )を凝視しておる。見つめておる。その見つめておるその間が三昧教なもの。ね、浮きが、まぁピクピクとこう動く。その時に、その心というのは、もう釣りをする者じゃなきゃらなわからん味わいである。そこに、獲物が釣り上げられる。ね、そのことも楽しい、けれどもその、浮きが動くまで、または釣り上げるまで、その間がこのそこに没頭するというかね、そこにこの浮きを凝視し続けておるその間を三昧教という。その信心も一つのその三昧教というものがね、必要、でてくるおかげを頂かにゃかいけん。こうしてお参りをされたのは、ちょうど釣りざおを持って川に、こう釣り糸を流しておられるようものだと。だから、これを凝視続けるということは、それが事実のようなもの。じっとそこのところを凝視続ける。ね、神様に向かう、神前に向かって、拍手をして、いわば釣り糸をそこへ、川に投げこんだが最後です。そこをジッと凝視続けなければ、いつ魚が引くやら、浮きがあー動くやら、えさをとられたやらも分からん。そこはもう大変なばからしいことのようであるけれども、そこに三昧教がある。私は今朝、そのことを一つ本気で思うてみろうと、こう思う。いわいる、自分の心を凝視し続ける。自分の心を見つづける。えー、次の98節に、「心は信心の定規じゃによって」と仰るように、自分の心の定規というのが、一分一厘でも、それこそ定規のように間違いのない、歪めば、歪んだとすぐ分かる。ね、そのところをです、自分の心を凝視続ける。とてもそれはできないようにあって、そのことを、私、繰り返していきよるうちにです、信心の三昧教といったようなものが開けてくるのではなかろうかと思う。そこでそれは、まぁ具体的に言うとどういうことかというと、おー、今日はもう不平を言わんぞ、思わんぞというようなことに焦点をおく。ね、今日は、不平を思わんぞ、言わんぞと。例えば自分の心の中に、もうちょっとでも例えば、その浮きがちょっとでも動くのが分かるようにですよ、自分の心の中に、不平がちょっとでもおころうとするときには、神前に拍手して向うた時の、あの気持ちというものをですね、えー思い出させてもろうて、そこ、あっ自分の心の中にもう不浄が起きておる。ね。例えばそういうような、なら一時がです、例えば30分でも1時間でも一日のうちに、自分の心を本気で見極める時間があればいいということを言われるけれども、信心させて頂く者はそれをですね、いうなら四六時中です。四六時中というてもまぁ、こうやって、なら目が覚めて、えー、休ませて頂くまでです、そのことを自分の心に掛け続ける、思い続ける。そうしてそれがですね、心の定規が、定規があー狂いかかるとろこ、あ、そのくるわんでむすおかげを頂かしてもらうような、おかげを頂いたとき、ね、今日は、おかげでね、心に不浄をおかすこともなく、心の中に不平を思うこともなく、もちろんゆうこともなかった一日であるというような事実が、ほんとに、いうなら完璧に事実できたらですね、私は、お互い三昧教の、というものがですね、信心の三昧教というものがこういうものだと体験させて頂けれると思うような気がする。それが、楽しみになってくる。もう、今日は忙しかけんで、もう釣りには行かんというように、もう今日は忙しかけんで今日はもう、朝お参りして、お願いしておかげを頂いて、お取次ぎを願って、後はもう、そげんずっと思うといったようなことはできない。今日は、忙しいから釣りにはいけない、というように、そげなんときもあってよかろうと私は思う。ね、お取次ぎを頂いて、お願いをしてあるから、ね、自由奔走に、例えば今日は御用なら御用に打ち込む。ね、けれども、今日はひとつ、うー、ひとつ今日は暇だから釣りにいっちょ行こうかと。そして、釣り三昧の境地に浸ってこうかというようにです、今日は、今日という一日は、ね、ひとつ本気で自分の心から神様を外さない、どういうヤリ先でつかれるようなことがあっても、この心を乱すことはない、汚すことはない、後ろへそのことによって振り向くようなことはない、一日でありたと、こういわば願う。そして、その願いをいわいる願い続けて、えー自分の心を凝視し続ける。ね。そこから、信心のいわいる有難さというかね、ちょうど釣り糸をたれて、そして釣れるまでの間の時間を、その三昧に浸る。その釣りの味わいに浸らせてもらう釣り人のようにです、ね、信心者である私たちがそういう境地に浸らせて頂けれる、そげんそんなら、暇なときじゃなきゃらなできないかとゆうとですね、まぁそういうような気持ちでおかげを頂いておりますとです、これは暇なときじゃなかきゃらなでけんというのではない、いわば、職場で仕事をしならです、御用を頂きながらです、これがだんだん自分のものになってくる。だんだんそれがでけるようになってくる。いや、そういう心の中に、御用があるようになってくる。ね、そこのところが私は、信心即、生活とか、いわれるのはそういうことだとこう思う。始めの間はなんとはなしに、いー、生活即信心、生活の方がどうしても先になるような感じがする。それでは、ほんとのことではないというふうに言われる。ね、信心その中に生活がある。ね、もう(不備?)なものではなくて、もういつもそれである。お話をしておっても、仕事をしておっても、いわば信心になりきって、自分の心を一つも動かさない。ね、そこからは、不平どころか不足どころか、ね、どのような場合でも、ヤリ先でつかれるような場合でも、有難うございます、あいすいませんと、有難うございますといったようなものが、私はだんだん身についてくる。もちろん、願いとするところはそこですけれども、今日私は、釣りに行ったときだけ釣り三昧になるように、今日はいっちょ不足を言わんぞと、今日は不平をもう思いもせんぞと、心は信心の定規と仰るから、心の定規を押し当てて、ね、歪むことなく曲がることなく、ここのところを凝視し続ける。ね、一つの教えなら教えというものを自分の心にかけ続ける。( )今日はおかげを頂いてから、ほんとに不足をいわんですんだ、けれどもあん時には、ほっと自分の心の中に不足を感じようとしたけれども、すぐそれが感じんですんだ、思わんですんだ。ね、そういうようなあたくしは稽古が、そういうゆうなら身につまった稽古がですね、私共にはもう、信心が有難うなるとか、楽しゅうなるとかというのはね、そういう私は、身のつまった稽古をさせて頂く。どうでしょうか皆さん、今日はいっちょ本気で釣りに行こうと、いうように今日は一日一つ、何を見ても、何を聞いても、例えばどういうヤリ先でつかれるようなことがあっても、今日という今日は、必死でね、不足を言わんぞ、思わんぞと、ね、それをどこまで自分がやり貫けるか。そこから、三昧の境地を一つ発見する。それに没頭する。少しだから、そのぎこちなくなるかもしれませんね、稽古ですから。(笑い)あんまそのことばっかり( )、ぎこちなく、運転しよっとも忘れてしもうとってはどんこんいかんですから。(笑い)けれどもその、その稽古にだんだんその、こうやってもうほんとにえー、命にかかるような大事なものですからね、運転なら運転をしておるのに、しておるその中にね、そういう境地が開けてくる。この剥がれないおかげを頂く。そこに浸られるおかげを頂きたい。ところがやっぱ、そのところはなかなか難しいですからね。これはあの、私はいつもそれを体験するんですけれど、神様をいつも思い続けとると、今も思い続けておる。そして、テレビを見ておる、新聞を読んでおる、そして画面にどういうようなものが出ておるやら、ふっと気がつかんでおるときがある。自分は新聞みよってから。新聞は読みよってから、もうとにかく、うん、もう、こげなふうならほんの、もう、半ページぐらいは読んでおってからです、全然気が付かないことがある。心の中に、神様のことばーかっり思いよるときがある。こういうとなんかはですね、( )でしょうが、けれどもね、有難いです。そういう、例えばこの、少しはぎこちないけれども、やはり稽古させて頂くということがですね、今日私が思わせてもらうのは、せっかく信心をさせて頂くのであるから、ほんとに信心の三昧教と、信心三昧といったようなことを言うが、その三昧教に浸らせて頂けれる稽古。ね、それを私は97節から今日頂いたのでございます。神を拝む者は、ね、信心をする者はとこう頂かせてもろうて、ね、神様の前に御祈念をしておる時だけではない、もうお広前におるときだけではない。うちに帰らせて頂いても、道中でも、そのことを心から外さない、ね。その一つの、焦点をです、自分の心の中に、今日は不平を言わんぞ、思わんぞと。しかもそれは、ヤリ先でつかれるようなことがあっても、これは曲げないぞと。いわいる不平どころか、不足どころか、そのことに対して例えば、お礼の言えれるような気持ちを開かせてもろうて、今日一日おかげを頂いて、不足を言わんですんだ、いや、言わんですんだどころじゃない、思わんですんだというようなね、おかげを頂かせてもらう。そういう稽古の中に、例えば確かにその、例えば生活と分離したものね、いわば生活的ではないもの。ね、いわば心が神様に奪われてしまっておるようなところも、それは稽古中ですからあってもよかろうと思う。ね、けれどもそこに、三昧教がある。ね、それがだんだん私が、自分のものになってくるときです、心の定規というものを、おー、押し当て、押し当てした、えー、稽古させて頂くところから、ね。ほんとに今日もおかげ頂いて、ほんとによかったというかね、有難かったというか、ね、そして、これを一つ明日も、また明後日もと、いうようなその気持ち。それが、ほんとのものに育っていくようなおかげを一つ頂きたい。例えば、えー、心を神様に向けるということがです、それが一足でも無駄にはさせんと仰せられるのですから、とてもこげなん難しいことはなかと、例えば一日間、一生懸命頑張ったけれどもというてですね、それが時々じゃってもですね、一足でも無駄にはさせんと仰るぐらいですから、一日なら一日それを思い続けただけでも、こりゃどこにか信心のいわば、血肉にどこにかなっていきよる。ね。だから、もう出来んからと言うて、その投げやりなことにせずにですね、まぁいうならば1時間でもよいからそれをひとつ本気で思うてみる。二時間でもいいから思うてみる。暇なときでもいいから思うてみる。いわいる時折、自分で自分の心を凝視する時間がほしいと、そういうときがあっていい。あらなければならんということを言うけれども、今日はそれは私は、一日とこう申しました。今日一日と。ね、凝視続けれる一日。自分の心を本気で見極めていく一日。少し仕事の邪魔になるかもしれん。仕事の上に能率が上がらんかもしれん。仕事の方、間違えるようなことがあるかもしれん。あまりにもそこを凝視続けておることによって。ね、けれどもですね、けれども、私はそういう稽古がだんだん身についてくるおかげを、私は本当の信心生活が身に付いてくるというのは、そういうことじゃなかろうかというふうに思うのです。どうぞ。 治子